「もう二度と、誰かを愛することはない」
シンクに流すと、陶器の音だけが妙に大きく響く。
2LDKのこの部屋は、二人で暮らすにはちょうど良い広さだった。しかし今では、広すぎて、静かすぎて、寂しさだけが際立つ。
ソファに身を沈めた瞬間、堰を切ったように疲労が押し寄せてきた。
美奈は悪い女じゃなかった。俺だって、彼女を傷つけるつもりはなかった。ただ——心が通い合わなかった。それだけだ。
形だけの夫婦を演じることに、二人とも疲れてしまった。
「もう一度やり直さないか」
最後に、俺はそう言った。しかし美奈は静かに首を横に振った。
「悠真さん、あなたは優しすぎる。でも、優しさだけじゃ結婚生活は続けられない」
その通りだった。俺たちには情熱も、愛もなかった。あったのは、お互いを思いやる優しさと、世間体を気にする弱さだけだった。
結婚する前は、それで十分だと思っていた。穏やかで、平和で、お互いを尊重し合える関係。けれど、実際に一緒に暮らしてみると、何かが決定的に足りなかった。
心が躍ることがなかった。
朝起きて彼女の顔を見ても、帰宅して「おかえりなさい」と言われても、胸がときめくことは一度もなかった。むしろ、次第に息苦しさを感じるようになっていった。
幸せな夫を演じることに疲れたのだ。
スマートフォンの着信音が静寂を破る。画面には「佐伯」の文字。
「お疲れさまです、藤崎さん。手続き、終わりましたか?」
出版社の後輩の声が、やけに明るく聞こえる。
「ああ、終わった」
「飲みに行きませんか。一人でいると、あまり良いことを考えませんよ」
「大丈夫だ。今日は休みたい」
「……そうですか。でも、一人で抱え込まないでくださいね」電話を切ると、また重い静寂が戻ってくる。
冷蔵庫を開けると、コンビニ弁当とビールが数本。それだけだ。料理は美奈が担当していた。俺が遅く帰っても、いつも温かい夕食が用意されていた。
今は、それすらない。
弁当をレンジで温めながら、ふと考える。
これから、どうやって生きていけばいいのだろう。
三十二歳。決して若くはない。周りの友人たちは家庭を築き、子供の写真をSNSに投稿し、それぞれ充実した日々を送っている。しかし、俺は——また一人に戻った。
味気ない白米を口に運びながら、俺は心に誓った。
もう恋愛なんてしない。
結婚も、恋人も、もう必要ない。
人を好きになることの虚しさを、俺は嫌というほど味わった。心が通い合わない関係を続ける辛さも知った。
だったら、最初から一人でいればいい。誰も傷つけず、誰にも傷つけられず、静かに生きていく。
外では雨が降り始めていた。窓ガラスを叩く雨音が、胸の奥に染みわたる。
これから先の人生、俺は一人で歩いていく。
そう決めたはずなのに——どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
弁当を半分残し、俺は早々にベッドに潜り込んだ。広すぎるダブルベッドの端で体を丸め、目を閉じる。
その夜、俺は不思議な夢を見た。
どこかで誰かが、俺の名前を優しく呼ぶ夢を。
でも、声の主の顔は見えなかった。
翌朝、目が覚めると外は嘘のような快晴だった。
雨上がりの空気は透明で、窓から差し込む陽光が床を金色に染めている。けれど、俺の心は、相変わらず曇り空のままだった。
洗面台で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見つめる。目の下には薄いクマができていた。昨夜はあまり眠れなかった。
いつものスーツに袖を通し、いつもの電車に乗る。変わったのは、もう帰りを待ってくれる人がいないということだけだった。
出版社に着くと、佐伯が心配そうな顔で迎えてくれた。
「おはようございます。顔色、あまり良くないですね」
「大丈夫だ。仕事に集中する」
それが今の俺にとって、唯一の救いだった。編集の仕事は好きだし、やりがいもある。作家たちの情熱あふれる文章を読んでいると、自分の空っぽな心を忘れることができる。
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。今日も新しい原稿が届いているはずだ。
そう、これでいい。
仕事があれば、俺は生きていける。
愛なんて、もう必要ない。
——この時の俺は、まだ知らなかった。運命が、すぐそこまで迫っていることを。
川沿いの公園のベンチに座って、俺は空を見上げていた。 十一月の空は重く灰色で、吐く息が白い。まるで俺の心の色と同じようだった。 平日の午後三時。普通なら会社にいる時間だが、今日は有給を取った。 理由なんてない。ただ、会社の机に向かっていると息が詰まりそうになる。同僚たちの何気ない会話や、「奥さんは元気?」という気遣いの言葉。どれも胸に刺さる。 離婚届を出してから二週間。左手薬指の日焼け跡だけが、三年間の結婚生活の名残を物語っている。まだ誰にも報告していない。言葉にした瞬間、すべてが現実になってしまう気がした。報告しなければならないことは分かっているが、どう切り出せばいいのか分からずにいる。「藤崎さんは真面目だから、きっと良いお父さんになりますよ」 昨日、後輩がそんなことをいった。彼に悪気はない。それが余計に辛かった。良いお父さんになれるのなら、まず良い夫になれていたはずだ。 ベンチの背もたれに頭を預ける。公園は静かで、時折犬の散歩をする人が通り過ぎるくらいだ。川のせせらぎが耳に心地よく響く。 こんな風に一人でいると、なぜか心が落ち着く。誰にも気を遣わなくていいし、無理に笑顔を作る必要もない。ただ、ここにいるだけでいい。「もう恋愛なんてしなくていい」 声に出して呟いてみる。そう思えば楽になるはずなのに、胸の奥に残る空虚感は消えない。 美奈との結婚生活を思い返す。最初の頃は確かに愛し合っていた。でも、いつからだろう。会話が減り、笑顔も義務のようになり、触れ合うことさえ機械的になっていった。「おかえりなさい」「お疲れさま」 交わす言葉も決まりきっていて、心がこもっていなかった。俺たちは、ただ夫婦という形を演じていただけだった。 結局、愛って何だったんだろう。 そんなことを考えながら川面を眺めていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。この時間にここを通る人は珍しい。 顔を上げると、こちらに向かって歩いてくる男性の姿が目に入った。背が高くて、黒いコートを着ている。年齢は俺より少し若く見えた。 最初は通り過ぎるものだと思っていた。でも、その人は俺の目の前で立ち止まった。「あの……」 低くて落ち着いた声だった。俺は首を上げて、その人の顔を見る。整った顔立ちで、目元がどこか涼しげだった。でも、その表情にはどこか真剣さが感じられた。「はい
「もう二度と、誰かを愛することはない」 藤崎悠真は離婚届に最後の印を押しながら、心の奥底でそう誓った。三十二年間で初めて、本気で思った。 市役所の蛍光灯が妙に白々しく感じられる。窓口の職員が機械的な笑顔を浮かべて書類を受け取ったその瞬間、三年間の結婚生活が音もなく終わった。「お疲れさまでした」 お疲れさま、か。確かに疲れた。心の底から、骨の髄まで疲れ切っている。 外に出ると、十一月の風が容赦なく頬を刺した。空は鉛色に沈み、今にも泣き出しそうに見える。まるで俺の心を映しているようだった。 電車の中で、ふと薬指を見下ろす。結婚指輪があった場所には、白い痕だけが残っている。三年間そこにあったものが消えると、こんなにも指が軽く感じるものなのか。 ——美奈との最後の会話が、耳の奥で反響する。「悠真さんって、いつも笑ってるけど、本当は何を考えてるのか分からない」 間違ってなんかいなかった。俺は確かに笑っていた。でも、心から笑えていたのは一体いつが最後だっただろう。 自宅マンションの玄関を開けると、靴箱には俺の革靴だけがぽつんと並んでいる。美奈のピンクのパンプスは、もうない。「ただいま」 誰もいない部屋に向かって呟いた声が、虚しく響いて消えた。 リビングに足を向けると、ダイニングテーブルの上には、朝のコーヒーカップが置きっぱなしになっている。中に半分残った茶色い液体は、もうとっくに冷め切っていた。 シンクに流すと、陶器の音だけが妙に大きく響く。 2LDKのこの部屋は、二人で暮らすにはちょうど良い広さだった。しかし今では、広すぎて、静かすぎて、寂しさだけが際立つ。 ソファに身を沈めた瞬間、堰を切ったように疲労が押し寄せてきた。 美奈は悪い女じゃなかった。俺だって、彼女を傷つけるつもりはなかった。ただ——心が通い合わなかった。それだけだ。 形だけの夫婦を演じることに、二人とも疲れてしまった。「もう一度やり直さないか」 最後に、俺はそう言った。しかし美奈は静かに首を横に振った。「悠真さん、あなたは優しすぎる。でも、優しさだけじゃ結婚生活は続けられない」 その通りだった。俺たちには情熱も、愛もなかった。あったのは、お互いを思いやる優しさと、世間体を気にする弱さだけだった。 結婚する前は、それで十分だと思っていた。穏やかで